しずくは、カフェ「ミレニアム」の厨房で、静かにラテを淹れていた。
ミルクの泡が、やさしく回る。
その手つきは、まるで儀式のように丁寧で、どこか切なげだった。
彼——遥人が、祖父の写真を見たことは、まだ知らない。
でも、彼の視線が変わったことには気づいていた。
目が合うたびに、何かを探すような、迷うような、そんな瞳になっていた。
「また、会おう」 70年前、彼が言った言葉。
それが、しずくの時間を止めた。
彼の死後、しずくは研究に没頭した。
時間の流れを操作する理論を追い続け、ついに“時を越える存在”となった。
老いることもなく、ただ彼を探すために生き続ける日々。
そして今。 遥人という青年が、彼女の前に現れた。
顔も声も違う。
でも、仕草や好み、そして“空気”が、あまりにも似ていた。
「彼なのかもしれない」 そう思うたびに、胸が締めつけられる。
でも、もし違ったら? もし、彼の人生を狂わせてしまったら?
しずくは悩んでいた。 真実を話すべきか。
それとも、静かに見守るべきか。
その夜、彼女はカフェの閉店後、棚の奥にしまってある古いノートを開いた。
そこには、彼との記憶が綴られていた。
研究のこと、笑い合った日々、そして最後の言葉。
“また、会おう。きっと、どこかで。”
ページの端に、彼の筆跡で書かれたその言葉を、指先でなぞる。
涙は流れない。 彼女の時間は、もう涙を流すことすら忘れていた。
翌日。 遥人がカフェに現れた。
いつもと同じ席。
でも、今日は何かが違った。
「しずくさんって…昔、うちの祖父と知り合いだった?」 彼が、静かに問いかけた。
しずくは、少しだけ目を見開いた。
そして、微笑んだ。
「ええ。とても、大切な人でした」
「……僕、夢を見るんです。知らないはずの場所で、誰かと約束してる夢」
「それは、きっと…あなたの中に残っている“記憶の波”ですね」
彼女は、ラテをそっとテーブルに置いた。
その香りは、70年前と同じ。
彼のために淹れた、あの一杯と同じだった。
「僕は…あなたに、会うためにここに来たのかもしれない」
「それなら、私は…あなたに会うために、時を越えてきたのかもしれません」
ふたりの言葉が、静かに重なった。
それは、再会の瞬間。
でも、まだ“選択”は終わっていなかった。
しずくは、彼にすべてを話すべきか。
それとも、このまま“そばにいるだけ”でいいのか。
ラテの泡が、静かに消えていく。
その一瞬に、彼女の心も揺れていた。